エドワード・クトロヴァッツとヨハネス・クトロヴァッツ

「僕たちが帰るべきところは音楽なんだ。」-ヨハネスとエドワード・クトロヴァッツは、彼らの音楽家としてのバックグラウンドについて問われ、こう答えた。ブルゲンランド州に生まれ、ウィーンに暮らすクトロヴァッツ兄弟は、その言葉通り音楽を拠として生きている。彼らはパンノニア人の血とその生活様式を受け継ぎながら、一方で常に自らを音楽様式と伝統の境界線上に位置づけてきた。二人は現在、日本、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ各国をはじめとする世界中の大陸を舞台にコンサート活動を展開。このことから、ヨハネスとエドワード・クトロヴァッツは世界的な成功を収めているオーストリア随一のピアノデュオといえるだろう。
「僕たちは聴き手の好奇心というものを信じているんだ。」-この好奇心、この音楽的な発見に対する喜びこそがクトロヴァッツ兄弟の原動力となっている。このことは毎年シュライニングで開催される音楽祭「春の響き」を思い起こせば納得できるはずだ。この音楽祭でヨハネスとエドワードはアジアやアフリカ、アメリカの音楽家と共演し、多様な構成や伝統を盛り込んだ音を奏でるのである。
このような経験と国の枠組みを越えた出会いが、ヨーロッパ内外の作品から成るクトロヴァッツ兄弟の幅広いレパートリーを築き上げている。それだけでなく、二人はその熱情的な演奏をして同世代の作曲家たちに刺激を与え、クトロヴァッツ兄弟の演奏を介して世に出す曲を書きたいという創作意欲を掻き立てているのである。
このCDに収録されている2台のピアノのための作品のほとんどは、クトロヴァッツ兄弟の構想に基づいて作曲、編曲されたものか、二人のために特別に提供されたものである。
「バガテル」と「2台のピアノのファンタジー」はローランド・バティックが作曲、編曲を手がけた作品である。ウィーン出身のバティックは、クトロヴァッツ兄弟のピアノ仲間でクラシックとジャズの両方に精通している。
バティックの教え子で若手作曲家のサッシャ・ペレスは、クトロヴァッツ兄弟が主催する音楽祭「春の響き」に際し、二人のために「チキン・フラート」を書き上げた。加えてペレスは「デサフィナード」、「枯葉」、デューク・エリントンの「A列車で行こう」のジャズ3大作をこのデュオのために編曲した。
クトロヴァッツ兄弟は20年にわたり、著名なピアニストであるイェノ・タカクスと盛んな意見交換を続けきた。タカクスは1902年ブルゲンランド州に生まれ、今もそこに暮らしている。世界中を巡った経歴の持ち主で、今では100歳を超えている人物である。彼は「ホンキー・トンク」を兄弟に提供した。
日本人作曲家、山本京子の素晴らしい編曲によるアストル・ピアソラのタンゴ2曲はヨハネスとエドワードが意識的に選曲したものである。それは、彼らにとって日本が20年以上にわたる「大変重要な活動拠点」であるからに他ならない。
エドワード・クトロヴァッツが手がけた3曲はCDの序盤、中盤、終盤において胸踊る軽快なリズムを刻んでいる。「クラシック」のフーガを「ジャズ」の即興曲風に作った「エスプレッソ・プロント」で前後を縁取られたこのCDの中心にはデーブ・ブルーベックの2作品が置かれている。「スリー・トゥー・ゲット・レディー」と「カスティリアン・ブルース」だ。打楽器を専攻したエドワード・クトロヴァッツにとって「ブルーベックは不可欠」な作曲家であり、「兄弟にとって、フランツ・シューベルトに次ぐ最も重要な師の一人」なのである。
シューベルトかブルーベックか、クラシックかジャズかに関わらず、クトロヴァッツ兄弟の刺激的で多様な個性を支えているのは、彼ら独自の発見と再発見の感覚、そして時代や文化を超え、あらゆる音楽を学ぼうとする律儀で注意深い、それでいて創意工夫に満ちた姿勢なのである。二人が持ち合わせている類まれな演奏技術、そして何よりも二人の音楽に対するひたむきな情熱こそが、クトロヴァッツ兄弟を音の世界の探求へと駆り立てるのだ。
ミヒャエル・ストラエター
(日本語訳 大江博美)

百数年前の9月26日、ジョージ・ガーシュウィンはニューヨークのブルックリンに生まれ、1937年7月11日にカリフォルニア州ビバリーヒルズでその生涯を終えた。末期の脳腫瘍だった。音楽家としての彼の生涯は、数え切れない伝説と一見おとぎ話かと思えるような嘘のようで本当の話に包まれている。
あるジャズ・ミュージシャンにガーシュウィンの功績は如何ばかりかと尋ねみると、ガーシュウィンは最も重要なミュージカル音楽作家だという答が真っ先に返ってくるだろう。事実、彼の楽曲はジャズ奏者たちによって多様にアレンジされながら、今日まで演奏され続けており、例えば本CDにも収録されている「アイ・ガット・リズム」などは、すでに1,001通りにかたちを変え世に出されている。それでもなお、ハーモニー豊かなこの曲はジャズ音楽史上のあらゆる時代において、「リズム変化」のテクニックをして聴く者を驚かせているのである。次に、「『ラプソディー・イン・ブルー』と『パリのアメリカ人』はジャズと言えるのか」という質問を投げかけてみるとどうだろう。
ガーシュウィンが彼の作曲した「アイ・ガット・リズム変奏曲」(1933/34)を演奏している短い映像が存在する。また、1920年代に彼が自作曲を数曲ピアノで弾いた録音データも残っている。彼は毎日数時間ピアノに向かい、幾多のパーティーでその腕前を披露して異彩を放っていた。しかし、彼が「本物の」ジャズ・ミュージシャンとジャム・セッション(即興演奏)をしようとする時、その要件を満たしていたかという点には疑問が残る。というのも、ガーシュウィンの弾き方は同時代の他のピアニストに比べると少し堅苦しかったので、聴衆は彼が即興で演奏をしていることになかなか気づかなかったのである。つまり、ジャム・セッションをしていても聴き手には彼が最初と最後の主題だけでなく、その他の部分も楽譜どおりに演奏しているように聴こえたのだ。ここで、ガーシュウィン自身にも発言の機会を与えよう。「ジャズはアメリカが生み出した音楽。これからも受け継がれていくだろう。ジャズはアメリカに溜まったエネルギーが形を変えたもの。だからこそ、それは激しく、にぎやかで、荒っぽくさえあるとても情熱的な音楽なのだ。」これは、1933年に出されたあるエッセーから引用したものだが、この言葉からガーシュウィンが何に魅せられ、「ラプソディー・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」で何を表現しようとしたのかを読みとることができる。結局、これらの曲は即興演奏用のジャズ音楽ではなく、もっと根本的なエネルギーを音に表現したものだったのだ。ガーシュウィンの原曲に大きな手を入れないまま、そこに込められたパワーを音にできるミュージシャンがこの曲を演奏したとき、聴き手はこのエネルギーを感じ取ることができるのだ!反対に原曲の細部にとらわれすぎることなく自由に演奏されると、今度は同じ曲がジャズの色合いを帯びてくるのである。
本CDに収録されているのはガーシュウィン自身が編曲を手がけた作品であり、そこからは彼の作曲作業の興味深い一面を垣間見ることができる。これらの作品は、後に作られたオーケストラ版の編曲の基礎となっているが、「ラプソディー・イン・ブルー」のオーケストラ版に関してはガーシュウィンではなく、ホワイトマン管弦楽団の主任編曲者であったファーディ・グローフェが作り上げたものである。「パリのアメリカ人」の場合は別で、ガーシュウィンは誰の手も借りずに自ら編曲を手がけ、「ラプソディー・イン・ブルー」から遅れること4年、ようやく発表にこぎつけたのである。彼はパリ、ロンドン、ウィーンにおいてその制作に取り組んだが、その作業をホテルの一室で行うこともあった。またその間に「ピアノ協奏曲へ調」(1925)の制作にあたり、自らに欠けている知識を補うため独学で勉強した。本CDに収録されている「パリのアメリカ人」(1928)は長年姿を消していたもので、1984年に初めて録音作品の一部として世に出ることとなった。「ラプソディー・イン・ブルー」はガーシュウィンの作曲した交響曲のなかで最初の特筆すべき作品であり、1924年2月12日、ニューヨークのエオリアンホールで初演を迎えた。このコンサートの指揮者を務め、後に「ジャズの王様」と呼ばれたポール・ホワイトマンは、初演の日取りが決まり、またそれが差し迫る段になって友人であるガーシュウィンにこの作曲を依頼した。現代に生きていれば、「仕事中毒」と呼ばれていたに違いないガーシュウィンは、当時ニューヨークとロンドンにおいて音楽家としてあらゆる責務を抱えており、その他の企画に少しの時間を割くこともできない状況であった。また、彼は「大規模な」作品を作るという点に関しては、自分にはホワイトマンほどの才能がないことを自覚していた。ところが、ヘラルド・トリビューン紙がガーシュウィンの出演したコンサートについて取り上げたことで事態が一変。彼は必要に迫られて、しかしある閃きを感じながら、たった24日でこの曲の2台のピアノ版を完成させたのである。
はじめから終わりまで、これぞガーシュウィンという作品。二曲とも、この巧みな「作曲家」がここぞと見透かした場面、つまり哀愁と荘厳な雰囲気の漂う中間部に曲のピークが組み込まれている。「ラプソディー・イン・ブルー」においてはガーシュウィンの兄、アイラが曲の原案に目を通し、中心的な主題となる印象的なメロディーを挿入するよう助言したといわれている。「パリのアメリカ人」のなかのブルースも同様のねらいで組み込まれたものである。どちらの主題も実に自然な流れで曲全体と見事に調和しており、知性に満ち溢れているが、だからといって冷めた感じはしない。まるで魔法で作られた曲のようである。ガーシュウィンは曲中に巧みに挿入したリズムをして、その足跡を数十年後の時代にまで残している。友人のラヴェルやシェーンベルクといった作曲家にも影響を与え、彼らから賛辞を送られている。ガーシュウィンの音楽は未だその勢力を保持しており、今日においても多くの若手音楽家がジャズやニューミュージックの世界に足を踏み入れる手がかりとなっているのである。
ジャズピアニスト、デイブ・ブルーベック(1920年12月6日、カリフォルニア州コンコード生まれ)はあらゆる点においてガーシュウィンと「即興音楽に対する姿勢を同じくする人物」である。両者とも元々音楽家を目指していたのではなく、ブルーベックの場合は父と同じ畜産家になろうと考えていた。兄たちが好んでクラシック音楽を習う一方、彼が興味をもった音楽といえばせいぜいジュークボックスやラジオから耳に「飛び込んで」くる、当時人気のスウィング・ミュージックといった程度だった。にもかかわらず、彼は自然と音楽の道に進み、1940年代に軍隊に入りパリに渡った際、ダリウス・ミョーのもとで作曲法と対位法を学んだ。そこでの経験から彼は、「この国(アメリカ)の心を伝えることができる音楽はジャズより他にない」と、ジャズピアニストの道を歩む意を固めたのである。このように、ブルーベックはジャズに忠実であり続け、1950年代、60年代に彼の確固たる音楽を主に四重奏曲のかたちで世に送り出した。ブルーベックと彼のサイドマン(主演奏者を助ける奏者)でアルト・サクソフォーン奏者のポール・デズモンドはこの時代を代表する音楽家であり、彼らの時期についにジャズが芸術音楽としての地位を確立したのである。ジョージ・ガーシュウィンのような作曲家や、その他の優れたジャズ音楽家たちは、まさにこの目的を果たすため、これまでたゆまぬ努力を続けてきたのである。
ガーシュウィンを生涯にわたって鼓舞し続けた精神力や活力というのは、今もジャズやその流れを汲む音楽を構成する上でもっとも重要な要素となっている。
ブルーノ・ライヒト
(日本語訳 大江博美)
「彼らの演奏がいかに感性豊かなものか、十分に賞賛し得る言葉が見つからない。」
「比類なき兄弟による素晴らしいピアノ演奏」
「感情的でありながら知性あふれる偽りのない音楽表現。二人が音を奏でると、互いが溶け合い、そこから新しい個性が生まれるようだ。最高のピアノデュオ!」
各国のメディアはクトロヴァッツ兄弟の演奏をこのように評している。
考え抜かれた音色バランス、絶妙な出だし、そしてきわめて正確なアンサンブルは、エドワードとヨハネス・クトロヴァッツが演奏する上で大前提となる要素である。これらの要素を欠いてしまっては、弾き手も聴衆もこのピアノデュオの演奏がいかに豊かで奥深いものであるかを十分感じ取ることはできない。
ブルゲンランド州出身のエドワードとヨハネスは、国立ウィーン音楽大学に進学。現在、二人は同大学で教鞭をとっている。修士課程においては、カール・ウルリヒ・シュナーベルやフランツ・ルップの下、芸術性を高める修練を積んだ。
クトロヴァッツ兄弟は世界的なコンサート活動を展開しており、主にヨーロッパ各国、中国、日本、韓国、アメリカ合衆国がその活躍の拠点となっている。また、フエルドリヒのシューベルティアーゲ、アイゼンシュタットのリストフェスティバル、ロッケンハウスの室内楽フェスティバル、ウィーンのクラングボーゲン、ルールのピアノフェスティバルといった有名な音楽祭にも定期的にゲスト出演している。
オーストリア内外における受勲、コンクールでの受章、ラジオやテレビでの演奏、CD収録といった経歴はこの兄弟の華々しい芸術活動を証している。
哲学、絵画、文学にも造詣の深い二人の演奏からは表現の幅広さと、より一層の奥行きを感じ取ることができる。

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)
2台のピアノのための作品
ヨハネス・ブラームスがピアノデュオのために作った曲は二つのグループに分類することができる。一つはピアノ連弾曲から成るグループで、代表作は「シューマンの主題による変奏曲作品23」
や、「ワルツ集作品39」、いわゆる「愛の歌ワルツ集」、そしてあの有名な「ハンガリー舞曲」(クトロヴァッツ兄弟の演奏により、別途Organum
Classicsから発売されている)である。ブラームスはこれらの作品で「人気の」作曲家となった。彼は交響曲や卓越した室内楽曲ではなく、オーストリアとハンガリーの歴史上特筆すべき年でもあった1886年に世に出された「ハンガリー舞曲」で当時の人々の心をつかんだのである。これらの曲は中産階級家庭からの依頼に応じて作られたものであった。これと相対するのが2台のピアノのための作品から成る二つ目のグループである。このグループに属する曲でブラームス自身が手がけたのは、「2台のピアノのためのソナタへ短調」と「ハイドンの主題による2台のピアノのための変奏曲」であり、前者はピアノ五重奏版、後者はオーケストラ版とともに作られている。加えてこのグループには、彼の友人ヨーゼフ・ヨアヒムが編曲したオーケストラ序曲2作品が含まれる。これらの室内楽曲や管弦楽曲の傑作はブラームスの正統派作品として知られており、彼は19世紀終り、アントン・ブルックナーとともに第二次「交響楽時代」を築き上げたのである。このようにブラームスは、大衆的な作品と正統派の作品を作る二つの側面を表裏一体に併せもつ作曲家だったのだ。
一方で彼の人気がある誤解の上に成り立っていたことも事実である。リストやワーグナーの流れを汲む音楽家や、その他多くの独立した音楽家たちは当時、ブラームスを「保守的な」作曲家として受け入れようとしなかった。これは、ブラームスが室内音楽やリートの作曲にのめり込みすぎたために、保守派の音楽家との見分けがつきにくくなったことから生まれた誤解である。「ウィーンの音楽の王様と称されたブラームスは、古典ロマン派末期の継承者であり、見せかけの伝統を踏襲しつつ、自らの平凡で保守的な時代に終止符を打ったのだ。」ブラームスを批判する音楽家たちはこのように理解していた。(シェーンベルクをして、ブラームスは「前進的な」作曲家であると呼ばしめるまでには、その後一世代を待たねばならなかった。)他方、彼の作品の中には広く一般大衆に受け入れられたものもあった。ブラームス作品のなかでは「重要性が低い」とされていたそれらの曲も、実は細部まで周到に考え抜かれ、完璧に作られたものだったのだが、彼らにはその事実を知る由もなかったのである。
情緒性と曲構成、シューマンの詩的音楽表現と自らが崇拝するベートーベンの世界の間に特別な関連性を見出したことは、ブラームスの創造的な芸術活動全般を特徴付ける事実となっている。彼の作品が今日まで息づいているのは、これらの要素が内面で緊張状態を保ち続けているからに他ならない。
ハイドンの主題による2台のピアノのための変奏曲 変ロ長調 作品56b
1873年に作られた「ハイドンの変奏曲」はブラームスの最も有名な作品の一つであり、彼が交響曲を作曲しようと決意するきっかけとなった作品である。ブラームスは1875年ついに交響曲の初作を完成させるまで数十年に渡り試行錯誤を繰り返した。その間に、小規模な変奏曲集を作曲することで自らの力量を測るとともに、これらの作品を大規模なオーケストラ作品に組み込んでいったのである。
「ヨーゼフ・ハイドンの主題」:ブラームスはウィーンにおいて、友人のユーゼビアス・マンディチェウスキーの周りを注意深くうかがっていた。というのも、ウィーン学友協会の記録保管係だったマンディチェウスキーが当時、ハイドン全集の初版の制作に着手していたからである。なかでもブラームスは、管楽器のための喜遊曲「聖アントニーのコラール」の第二楽章に注目した。「野外音楽のための組曲(Hob.
11:41-46)」と呼ばれた一連の6作品の最後を締めくくるこの曲が本当にハイドンの作品であるかどうかについては、情報源が一つしかないため疑問視されているところである。たとえこの曲がハイドンの作品だったとしても、彼が出所不明なところから「聖アントニー」のコラールを引用してきた可能性も考えられる。ともかく、この曲がハイドン自身の作品か否かによらず、その不規則な旋律はブラームスの好奇心をそそるものであった。第一節は4拍子というよりは、むしろ5拍子であり、早くもこの曲を変則的なものに見せている。「ハイドンの変奏曲」は、最小限の空間の中に交響曲的要素を含めた傑作の一例であるとされている。ブラームスはこの曲中に小さな変化を数多く加えることで、主題に最大限の多様性をもたせることに成功した。それと同時に、この主題のすべてのモチーフの特徴を損なうことなく存続させたのである。例えば変奏曲第1番では、主題のなかでも最もわかりにくいモチーフの一つを取り入れている。それは、コラールを締めくくる5つの和音である。(繰り返していうが、5つの和音をだ!)最後の「フィナーレ」はそれ自身が小さく規則的な曲として体系化されているが、ここでブラームスはバロック時代の古い変奏曲の体系に立ち返っている。それはパッサカリアというもので、新しい対位法的な音調が絶えず繰り返す低音主題に添うように考案されたものである。(ブラームスはこの技法を彼が最後に作った交響曲の「フィナーレ」にも、より壮大なスケールで取り入れている。このことから、「ハイドンの変奏曲」がブラームスが交響曲を作る上での手がかりとなったことがわかる。)「ハイドンの変奏曲」においてブラームスは、「聖アントニーのコラール」から5小節の低音主題を引用している。最終部に元の主題をそのまま入れることで、この作品全体が勇壮な締めくくりを迎えるのである。
2台のピアノのための変奏曲(作品56b)はオーケストラ版(作品56a)と併せて作られたもので、中産階級のサロン向けの「練習曲」のようなものであったと考えることができる。一つの楽器だけでこの複雑な曲を十分に表現することは不可能である。ピアノ版ではオーケストラ版ほどの音質を出すことができないかもしれないが、それでも原曲に含まれるすべての要素を繊細な銅版画の如く正確に写し出しているのである。
2台のピアノのためのソナタ ヘ短調 作品34bis
2台のピアノのためのへ短調のソナタは紆余曲折を経て作られた「原曲」である。そもそもこの曲はチェロ2台を含む弦楽五重奏曲になるはずで、1861年には3楽章まで出来上がっていたのだが、結局完成には至らなかった。最初に通し弾きをした彼の友人ヨーゼフ・ヨアヒムがこの曲をあまりに「お粗末」だと評したからだ。そのためブラームスはこの曲を2台のピアノのためのソナタに作りかえ、それが結果的にかの有名な「ピアノ五重奏作品34」に生まれ変わったのである。この曲の形式は今日において最も有名なもので、ブラームスの室内楽曲制作第一時代を締めくくる最高傑作とされている。彼は2台のピアノ版の方も発表したが、これが日の目を見たのは1871年になってからであった。ブラームスから自筆原稿を譲り受けたヘッセンのアンナ女伯爵がそれを紛失してしまったというのが、その主たる理由だとされている。このソナタは非常に複雑でスケールの大きな作品である。第一楽章は4拍子の反復楽句で始まるが、この部分が同楽章の中心となるばかりか、作品全体を印象付けるほどの影響力をもっている。この反復楽句から一つ一つの要素を拾い集めることによって、主題の様相や展開が一気に姿を現してくるのである。この曲は非常に厳密に作られているため、そこに弾き手の感性が加わることで、この上なく優雅なものとなり得るのである。2台のピアノ版と、ピアノ五重奏版を比較してみると、五重奏版の初期の改作では対話調の旋律が保持されていることがわかる。しかし、後の五重奏版のピアノパートは、もはや2台のピアノ版の片方のパートと一致するものではなくなっている。
第一楽章は短調の反復楽句により非常に暗い響きのまま締めくくられるが、続く第二楽章は熱情的な輝きをもって始まる。ところが、ブラームスの作品ではよく見受けられるように、それも長くは続かない。第三楽章の「スケルツォ」はまたもや相当変化に富んだ曲に仕上がっている。この曲の反復楽句は多様な形に出来上がっており、同様に複雑な「フガート」と好対照をなしている。ここでは、この反復楽句から曲の中心となる思想が形成されているのである。終楽章「フィナーレ」はこの作品のなかで最も型はずれな楽章である。まるで即興演奏であるかのようにゆっくりしたテンポで始まる出だしの動きは、後に続く哀愁漂うオクターブ離れの旋律の躍動と、苦悩に満ちた半音階の動きを探し出そうとしているかのようである。第一楽章の反復楽句から引き出されている「アレグロ・ノン・トロッポ」の主題はバラード調のトーンで、実は二重の主題から成り立っている。この終楽章は序盤こそ「普通の」ソナタのように進行するものの、それに続くのは多様に形をかえたメインパートの繰り返しであり、その中には曲の「展開部」と確固たる主題の「反復」が盛り込まれている。そして、最後はこの変奏曲を象徴する16分音符の「プレスト・ストレッタ(急速楽句)」で終わるのである。第一楽章に見られるのと同様、この作品は不調和なへ短調の旋律で締めくくられるのだ。
ゲルハルド・J・ウィンクラー
(日本語訳 大江博美)
「彼らの演奏がいかに感性豊かなものか、十分に賞賛し得る言葉が見つからない。」
「比類なき兄弟による素晴らしいピアノ演奏」
「感情的でありながら知性あふれる偽りのない音楽表現。二人が音を奏でると、互いが溶け合い、そこから新しい個性が生まれるようだ。最高のピアノデュオ!」
各国のメディアはクトロヴァッツ兄弟の演奏をこのように評している。
考え抜かれた音色バランス、絶妙な出だし、そしてきわめて正確なアンサンブルは、エドワードとヨハネス・クトロヴァッツが演奏する上で大前提となる要素である。これらの要素を欠いてしまっては、弾き手も聴衆もこのピアノデュオの演奏がいかに豊かで奥深いものであるかを十分感じ取ることはできない。
ブルゲンランド州出身のエドワードとヨハネスは、国立ウィーン音楽大学に進学。現在、二人は同大学で教鞭をとっている。修士課程においては、カール・ウルリヒ・シュナーベルやフランツ・ルップの下、芸術性を高める修練を積んだ。
クトロヴァッツ兄弟は世界的なコンサート活動を展開しており、主にヨーロッパ各国、中国、日本、韓国、アメリカ合衆国がその活躍の拠点となっている。ニューヨークのカーネギーホール、ロンドンのウィグモアホール、ミュンヘンのヘラクレスホールといった名だたるホールにおいても演奏。また、フエルドリヒのシューベルティアーゲ、アイゼンシュタットのリストフェスティバル、ロッケンハウスの室内楽フェスティバル、ウィーンのクラングボーゲン、ルールのピアノフェスティバルといった有名な音楽祭にも定期的にゲスト出演している。
オーストリア放送協会(ORF)は、ORFカルチャーホールにおいてウィーンに在住するこのデュオのシリーズコンサートを開催した。
クトロヴァッツ兄弟はこれまで表舞台に出ることのなかった、2台のピアノによる四手演奏のためのオリジナル曲を研究し、自らそれを演奏することを主な活動の一つにあげている。一方で、同世代の主要な作曲家たちがこのデュオのために書き上げた曲の演奏にも取り組んでいるのである。
オーストリア内外における受勲、コンクールでの受章、ラジオやテレビでの演奏、CD収録といった経歴はこの兄弟の華々しい芸術活動を証している。

ヨハネス・ブラームス:「ハンガリー舞曲」
ヨハネス・ブラームス(1833-1897)は「ハンガリー舞曲」と題した作品を1869年と1880年の二度にわたって発表しているが、それらはすべてピアノ四手演奏のために作られたものである。ブラームスは1852年頃からこの曲の作成に取りかかっている。ハンガリー人バイオリン奏者エドワード・レメーニイと出会い、ハンガリーの民俗音楽に興味をもったことがきっかけのようだ。「ハンガリー舞曲」に多く見られるメロディーは、ハンガリー民俗音楽の原形を保ちつつ、そこにブラームスの構想力に富んだアレンジが加わってできあがっている。彼はハンガリー民俗音楽特有の情熱的なスタイルをしっかりと踏襲し、その上でより洗練された曲を完成させることに力を注いだのである。この作品はたちまちブラームスの代表作として周知され、それ以来聴く者を魅了し続けているのである。
「ハンガリー舞曲」はどのジャンルにも属さず孤立した曲のように見えるかもしれないが、実はそのように認識されるべきでははい。それは、ブラームスが他の作品(例えば、「ピアノ四重奏ト単調作品25」の有名な終楽章)においても同じようにハンガリー音楽の要素を取り入れているばかりか、18世紀後半には既に彼以前のドイツ人作曲家たちがある種のジプシー音楽を含むハンガリー音楽に関心をもち始めていたという事実があるからである。適当な楽章に「ア・ロンガレーゼ(ハンガリー風に)」や「アッラ・ツウィンガラ(ジプシー風に)」の雰囲気を盛り込む傾向は、おそらくヨーゼフ・ハイドンの頃から始まっていたのだろう。19世紀に入ると、オーストリア、ハプスブルグ家の支配から自由を勝ち取ろうと闘うマジャール人の姿に共感した音楽家たちが、その音楽に更なる感情を注ぎ込むようになった。そして、ブラームスやリストといった作曲家が次々と「ハンガリー狂詩曲」、「ハンガリー舞曲」などの作品を書き上げっていったのである。ヨハネス・ブラームスは、ハンガリー民俗音楽の要素に加え、もっと根本的なものを演奏のなかに取り入れた。それは、ドイツ民俗音楽の要素である。彼は同時期の著名な作曲家のなかで誰よりも古来のドイツ民族音楽に親しみを感じていた。彼にとって民俗音楽というのは単に音楽の範疇にとどまるものではなく、厳密には精神的な要素をも含むものであった。つまり、それは彼の母国とそこに暮らす人々の生き様の縮図に他ならなかったのである。1833年、ハンブルクの下層階級の農家に生まれたブラームスは彼自身の、また芸術家としての生涯にわたる拠を民俗音楽に見出した。私たちにとって馴染み深く、彼の全作品に広がる「ブラームスの音色」。その美しい旋律と、あまりにも憂鬱な雰囲気の中に漂う温かさは、19世紀においても息絶えることなく存在していたドイツ民俗音楽から引き出され、彼の手によって洗練されたものである。「ハンガリー舞曲」の中心となっているのは、この忠実に表現された民俗音楽の要素である。このことは、ブラームスが意欲的に、そして情熱的にドイツ民俗音楽、オーストリアワルツ、ハンガリーチャルダーシュの特徴を自らの音楽表現のなかに組み入れたことからも明らかである。自らの作品に偽りがないこと、元のかたちに忠実であることを重視したブラームスは、国の範疇にとらわれることなく様々な音楽の要素を取り入れた。それゆえに、力強さと穏やかさ、情熱と哀愁を併せもつ音色豊かな「ハンガリー舞曲」は、人々に広く受け入れられているのである。
ハンスディーター・ウールファース
(日本語訳 大江博美)
ピアノデュオ・クトロヴァッツ
「見事に調和した演奏」
これは、オーストリアの「プレッセ」紙がクトロヴァッツ兄弟を取り上げた記事の見出しを飾った言葉である。このフレーズは、二人の室内楽に対する姿勢をうまくとらえている。
考え抜かれた音色バランス、絶妙な出だし、そしてきわめて正確なアンサンブルは、エドワードとヨハネス・クトロヴァッツが演奏する上で大前提となる要素である。これらの要素を欠いてしまっては、弾き手も聴衆もこのピアノデュオの演奏がいかに豊かで奥深いものであるかを十分感じ取ることはできない。
クトロヴァッツ兄弟はブルゲンランド州に生まれ育ち、国立ウィーン音楽大学に進学。(そこでレナテ・クラマー・ブライゼンハマー女史に師事。)現在、二人は同大学で教鞭をとっている。修士課程においては、カール・ウルリヒ・シュナーベルやフランツ・ルップの下、芸術性を高める修練を積んだ。哲学、絵画、文学にも造詣の深い二人の演奏からは表現の幅広さと、より一層の奥行きを感じ取ることができる。

--> home |